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凡才と悲観

人生に情熱を。

宗教と僕

 最近、ある女優さんが某宗教団体へと出家すると芸能界を引退することがニュースで報じられた。

その女優さんは、僕が少し好きだった「哲子の部屋」という番組に出演していた天真爛漫な女性だった。彼女については、穿った物の見方とか正直なところとか感性が面白いと感じていた。

 

そんな彼女は、宗教団体側によると、某宗教団体の信者で、事務所の圧迫に耐えきれず、その宗教団体へと逃げ込んだのだという。

 

天真爛漫に見えた彼女が、宗教団体の信者で、かつ事務所の圧迫(本当であれば)に苦しんでいたとは誰が想像できただろうか。

しかし、まったく曇りのないように見える人間が、深い闇を抱え込んでいることは少なくない。光が輝くほど、影が濃くなるようなものである。

 

僕は、宗教の信者である彼女(これも実際は真偽は不明)が幸せではないとは、断定できないし、他人がとやかく言うものでもないと思っている。しかし、彼女が逃避場所として唯一頼らざるを得なくなった宗教と、もし本当であれば、彼女の過酷な労働環境(必ずしも真偽は不明)には憤りを覚える。

 

僕は、両親のアイデンティティーを子供に押し付けるのには反対だし、生まれ育った環境で何かが決まるのがやはり、おかしいと思うからだ。また、昨今の労働状況は、人を幸福にするために働くという僕の労働感から離れているから、僕は、間違っていると思う。

 

ここで、僕の宗教感について、

僕は、前提として人間は何かを信じなければ生きていくことができないと思っていて、神を信じる人もいれば、家族や友人、偉人や物、貨幣や自己など挙げればきりはないが誰もが何かを信じていると思っている。その中で、僕は、生れた環境やしがらみがすごく嫌いで、僕が信仰しているものは、自己信頼といえるものだと思う。僕は、すごくリバタリアン的な考えだと言える。

しかし、自分自身は、その環境やしがらみによって生かされてきたパラドックスをも自覚していて、必ずしも自己しか信頼しないということではなく、人間は生まれ育った環境や人、関係性を感謝しつつ、自分の意思と選択で、アイデンティティーを再構成しなければならないと思うからだ。

自己信頼は、自己の決断による自己の再構成によって生まれる。

 

僕の考え方からすると、彼女は、自己のアイデンティティーの再構成による自己信頼を放棄して、他者による決断という世界を生きることを決めたと思う。といいうよりも彼女は、そうせざる人生や選択を生きてきたのかもしれない。社会をもっと自由度が高くするためには、逆説的に人の支えが重要だ。彼女が、アイデンティティーの再構成による自己信頼を作れるようにすることが社会のすべきことではないだろうか。

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